次の日の晩、キョーコは制服ではなくミニスカートにロングブーツ、ざっくりしたニットセーターを着て蓮の部屋の前に座っていた。毎度別人のようだ。
蓮は、キョーコがやってきたのを、内心、嬉しく思った。なぜかこの少女の大きな強い目と、透き通った声と、情緒の欠片もない強引な唇に引き付けられる。また会いたいと、思ってしまう。そして、猫が同じように現れたのは、気のせいだったようだ。
蓮が「いらっしゃい。お嬢さん」と言って微笑んだ表情がとても穏やかだったから、キョーコは少しだけどきりとした。何故かこの男に心から受け入れられている気がする。そんな気がしてならない。たった一度の本気のような冗談のようなキス一つで、蓮はキョーコに落ちたとでもいうのだろうか。
「なに、合コン帰りか何か?」
蓮はキョーコの格好を見て、そう揶揄した。彼女がカーペットにぺたり、と座ると目のやり場に困る。化粧もまるで大人のようで、一人暮らしの男の家に夜に来て、いかにも『誘っています』と言わんばかりだ。
「女子高生には見えないでしょう?せめて、貴方と同じぐらい大人には見える?」
「格好で大人が決まるなら、誰でも大人になれてしまうよ。」
蓮はそう言って薄く笑った。キョーコが淹れたお茶を一口飲む。そして、美味しいよ、とそれに関しては素直に褒めた。
「もう、格好も褒めてくれたって!頑張ったのにっ。女子高生の制服でダメなら、この格好ならいいと思ったんだけどなっ。」
「くすくす・・・格好なんて関係ないだろう。中身だよ、大人は。」
「私は子供心を持った大人になりたいの。ピーターパンみたいに・・・って・・・あれっ・・?・・・ねぇ、ねぇ、ねぇ。」
キョーコは目をキラキラと輝かせながら、蓮の横に現れた小さな仔猫を指差した。
「それ、どうしたの?敦賀サン、昨日から飼ったの?」
「昨日の朝会社の玄関に置かれていたんだ。保健所に送るというから可哀想で飼う事にした。」
「可愛いっ!!!ね、ね、名前は?」
そう問われることは分かっていたが、蓮は珍しく動揺して、あ・・・と言ったまま、一瞬固まる。まさか似ているからキョーコと名付けたなどとは言えない。
「あ・・・アリーだよ。そう、アリーだ。」
「オスなのに?」
「思いついたのがそれだったんだ。オスだとあとで気付いた。」
「そうなの。アリー、よろしくね。私、キョーコ。」
「ナァウ。」
仔猫の手をちょいちょい、と持ち上げると、仔猫は遊んでくれるのが嬉しいのか、すりすりすり、とキョーコの手に顔を摺り寄せた。
「人懐っこいのね。可愛いっ。」
「・・・はは・・・。」
「ずっと私の手に甘えてる。」
「とても寂しかったみたいなんだ。オレが家にいる時はずっと傍にいる。確かに可愛いけどね。」
蓮が適当に言った名前を信じたキョーコに、内心ほっとした事を当然キョーコは気付かなかった。
その日から、その猫の名前はキョーコから、アリーに変わってしまった。
*****
「ね、敦賀サン。敦賀サンは自分を大人だと思ってる?」
問われて、蓮は手に持っていた紅茶のティーカップをテーブルに置くと、その長い手足をゆったりと組みなおした。
「だからね・・・大人だとか年齢だとか、気にしてないんだ。仕事は決められた事を正しく遂行して、挙げられたプランの中から最良だと思う意思決定をする。問題が起これば責任を取ってやめる。それだけだ。プライベートは、大人だとは思わないけど。」
「あれ?その歳で社長なんてやってるから、会社依存症なのかと思ってた。だって結婚だって、会社のため、とか思ってない?相手はバリバリのビジネスウーマンさんなんでしょう?敦賀サンが結婚するような相手って事は、それなりの立場の相手なのでしょう?きっと、社長か、相手の会社の社長の娘とか。まるで自分の意思じゃないみたいなんだもの。」
「割と鋭いね。」
蓮がそう言うとキョーコは、しばらくじっと蓮を見た。
蓮は、何、と言った。
「私が、貴方を自由にしてあげましょうか?」
キョーコが、ソファに座る蓮の前に移動して、下からじっと蓮の顔を見上げる。蓮の手を、取って、すり、とその手の甲を指で撫でた。
「・・・・どうやって?」
「結婚の約束を解消して、私と恋愛するの!」
「・・・・・・・・・。あのね、そんな単純な事?意思決定のための選択肢は一つしかないじゃないか。」
「だってより良い選択をするのが社長の務め、なんでしょう?おかしいじゃない!社長業は物凄い敏腕で、誰も考え付かないプランを打ち立てて成長して行く貴方が、恋愛はそんなに受身だなんて。最初から選択する事自体、諦めてる。最良の意思決定だとは思えないわ。」
キョーコは蓮の手を両手でぎゅっと握る。蓮はキョーコの必死の言い分を、半分図星で耳が痛いなと思いながら、もう半分不思議そうに眺めていた。
なぜ、こんな女子高生に自分の恋愛を諭されるのだろう。
「・・・・・で、君と恋愛をしろと?」
「・・・別に私は、貴方の恋愛の中のオマケ。あなたの恋愛と結婚は、別の所にあるんでしょ?たまたま今こうして目の前にいて、貴方に今本気で恋愛する相手がいないなら、私でもいいじゃない。いつか恋愛と結婚が一緒になる相手が見つかったら、私とサヨナラすればいいじゃない。」
キョーコはやや機嫌を損ねたのか、声のトーンが落ちた。
言って欲しかった言葉では無かったのだろう。
「・・・・キョーコ。」
蓮がキョーコの髪に触れる。
後頭部をゆっくりと何度も往復しては撫でる。
下を向いていたキョーコはゆっくりと顔を上げて、「言い過ぎました、ごめんなさい」と言った。
「いや」と言った蓮の目を覗くと、その目が優しかったから、また、どきりとした。どうも、この男の優しい目を見るとおかしな気分になって、自分の気持ちが見えなくなる。
「なぜ君がオレの恋愛でそんなに機嫌が斜めになるのかは分からないけど・・・君の意思決定としては、オレが好きで、オレと恋愛しよう、と言っているようには聞こえない。まるで恋愛難民の哀れなオレを助けたい慈善事業のようだ。オレをどうしたい?もしかして、結婚相手の女性の敵対企業にでも雇われたか頼まれた?オレの結婚をぶち壊せって。」
「そんなのじゃないわ。」
「じゃあ、何?オレと遊びたい?高校生の興味本位?明日の学校での自慢のネタ?大人の男と付き合ってるって。それともゲームなのかな、オレを落とせるかどうか。」
「ヒドイ!!!」
「ヒドイのは君だ。結婚する男の人生を邪魔しようとしてる。オレが少しでも好きなら、祝福してくれ。」
「だって、祝福なんて出来るような関係じゃないじゃない、貴方と結婚する人。私とは情緒あるキスができるのに、その人とは好きなフリを一生突き通してキスするのよ?可哀想じゃない、貴方も奥さんも。互いに自分を何だと思ってるの?自分の人生本当に考えた?恋はもう、本当にしないの・・・?」
半分懇願に近い。
泣きそうな表情に、蓮も困惑する。
「・・・君は相手の女性の妹か何か?」
「違うわ。私なんて何だっていいじゃない。」
「何でそんなに必死なんだ。」
「・・・・・・・・。」
蓮は、キョーコの髪を撫でた。
キョーコは、大人しくそれを受けている。
「ふ・・・・・。キョーコ、君と恋愛をしたら、さぞ楽しいだろうね。君がそうしてオレの矛盾を指摘してくれて、情緒あるキスができる。君に車の中で本気でキスをしていたと気づいた時、一瞬思ったんだ。結婚やめようかな、ってね。・・・・くすくす・・・・分かったよ、オレの負けだ。恋愛するのが面倒になってたんだ。君が、好きだよ。」
蓮がそう言うと、キョーコは目を丸くして驚いた。
溺れた魚のように間抜けに口をぱくぱく開閉させて、まるで何を言ったら良いのか分からない様子だった。
「あんなに恋愛しろって言ったのに。何、その顔。」
「あの・・・・。」
「君が、好きだ。キス、して。」
「わ・・・私のキスは高いのよ・・・。」
「いいよ、オレの全財産を君に。」
「あなた、極端だわ。意思決定本当に得意なの・・・?プライベートの事になると、とたんにモノグサなのね・・・。もっと自分を大事にしないと・・・。」
キョーコがまだ驚いた様子で、それでも何とか切り返そうとするから、蓮はキョーコの力の抜けている身体をソファまで引き上げて、あごをくい、と人差し指で持ち上げた。
「それはオレの台詞。支払いのキスは、誰にでもするの?誰の男の家にでもこうしてあがって、口説き落とすのが君の得意技なのかな・・・。」
「そんな事誰にもしないわっ!!キスしたの、敦賀サンが初めてだもの。見よう見まねよ!悪いっ???」
蓮は心から可笑しそうにおなかを抱えて笑った。キョーコも、「キス、もしかして上手かった?私。大人みたいなキスだった?」と言った。
「騙されたよ。」
蓮は、キョーコの唇に自分のそれを這わせて、舌先でキョーコの唇を舐めて、キョーコのそれをおびき寄せる。蓮の舌先をぺろり、と舐めたキョーコの舌先を強く引き入れて、絡め、甘噛みする。蓮は、キスを繰り返しながら、キョーコに言った。
「君の気持ち、聞いてない。」
「・・・・・・。分かったわ・・・もう降参。貴方の情緒ある唇はクセになるみたい。気持ちよくて、好き。」
「・・・君に騙されてもいいと思ってる。いつか痛い目を見るような気がするのにね。あと数日だけ、傍にいて。」
「結婚、するの?」
「さぁ・・・。」
「女を口説くの、本当に得意なのね。そうして今私の気持ちを聞いておいて揺さぶりをかけるなんて・・・。今は最高に盛り上がるべき所なんじゃないのかしら?貴方、一度ぐらい痛い目を見たら良いのよ。」
キョーコは呆れて、蓮から離れて、紅茶を口にして、猫に、「貴方のご主人様は、女を口説く天才なのよ」と言った。
「くすくす・・・だから、本気で恋愛しようと思った事が無いんだ。」
「え?じゃあ、もしかして、私が、初めてっ???」
「そうかもね。」
「じゃあ、許してあげる。」
「くすくす・・・オレの初めては、高いよ?」
「私の唇も高いのっ。敦賀サン専用にしてあげるから、あなたが欲しい。」
「ふ・・・・・。本当にワガママお嬢だな。キスが初めてって事は、もしかして、男も知らない?」
「・・・・・・!あなたにはデリカシーってものも無いの?悪かったわね、無知でっ。」
「いや?それもオレが教えて良いなら、情緒ある、」
「バカっ!!!!!」
「くすくす・・・本当に久しぶりに恋愛が出来そうで良かったよ・・・。さあ、もう、十時だ。送るよ。」
「・・・?別に私に門限なんて無いわ。母は私の事ほったらかしだもの。」
「それは関係ないけどね、もう帰ったほうがいい。」
「結婚、するから・・・私を可哀想に思ってる?それとも、良く考えたら、私は貴方に釣り合わない?もっと素敵でお金持ちなお嬢様と恋愛すればよかったって、私を手に入れたから、もう後悔しているの?」
「ふ・・・・・可愛い。・・・君は恋したら一直線で・・・一身に尽くすタイプだろう?抱いて欲しい?」
「んもう、本当にデリカシーが無さすぎっ。ロマンチックの欠片も無いっ。好きな人と、初めてしたい乙女の夢と希望を一瞬で砕くのね。」
「好きだったんだ?オレのこと。」
「好きになってた。昨日どうしても家を出してもらえなくて・・・昨日会えなくて、なんか会いたいなって。私がいないから、他の大人の・・・思い合ってない恋人を部屋にあげているのかなって・・・。」
「残念ながら、昨日はこのちび猫と相思相愛の恋愛をしてたから、結構忙しかったよ。」
「ふふ・・・。貴方が何者でも良いかなって思う。だから、あと数日だけ、本気のキスをして。」
キョーコは至極真面目な顔で、蓮を見てそう言った。
蓮はキョーコを見つめたまま何かをしばらく考えた後、口を開いた。
「・・・キスはしよう。でも・・・抱かないよ。」
「なぜ?」
「オレが、大人だから。」
「私が子供だからって事?高校生だから?あと数ヶ月で卒業するのに?」
「違うよ。責任が、取れない。君を心のまま抱くのは簡単だよ。男だからね、気持ちがあっても無くても互いが同意しているなら別に。もちろん君が好きだから・・・今すぐ抱いてあげられるし抱きたいとは思うけど・・・。だけど・・・あと数日なら、やめておくよ。もっと君と深く恋愛してみたくなるから。君のために良くない。いつか、君が結婚するか、本気で恋愛する相手に、教えてもらうと良い。」
「・・・本気だもん・・・・。」
キョーコは、とても困った顔をした。蓮の言い分は、分かる。自分の言葉が、蓮の心の最奥までは届いてない事に、苛立ちと、虚しさと、そして哀しさを感じる。そういう行為をするために恋愛がしたいわけではないが・・・。
「君のために・・・逃げる選択肢は沢山設けたけど・・・それでも、オレが、いいの?君の心の最良の選択肢は、本当にオレなの?」
キョーコは、うん、とだけ言った。
「・・・キョーコ、おいで。オレが君を大人にしよう。」
蓮は、もう迷わずに、キョーコの手を引いた。
抱き締めて、口付ける。今までの口付けとは全く違う、強引で、どこか噛み付くようでもあった。
キョーコの香水の香りと、蓮の香水の香りが、上がった体温で香り、交じり合った。
沢山の口付けをして、キョーコは蓮の唇を、キスを、覚えていく。
互いに名前以外の、深い素性も何も知らない、思いが通じ合っているのにもかかわらず、どこか背徳感を感じる中の恋は、蓮にとって信じられないほど甘い甘い蜜の味がした。その蜜は強く蓮を誘き寄せた。まるで初めての恋を知った子供のように、蓮は甘い息苦しささえ感じる。
初めて利害も何も感じない、気持ちだけの本当の恋を知ったような、そんな気がした。
互いが互いの蜜に浸りきり、必死で蓮を知ろうとする甘く蓮を誘うキョーコの声が脳に直接響いて身体がひどく火照り、その声を聞きたくて更に引き出さんとして、キョーコを追い詰めた。
気付くと、日付が、変わっていた。
単純に愛しいなと思って、頬に口付けを落とす。
こんなに単純な気持ちを気づかせられた。
今まで見てきたことが無い種類の女の子。
抱いたら何かに気付かせられるだろう危機感と予感があった。
自分が知ってはいけない、何か。
だから自らの危機回避の為に抱かないと言ったのに。
それでも抱きしめたかったのだと、蓮の心の声は、また単純な答えを導き出した。
初めて知る恋の毒が激しく蓮の身体をまわり始め、蓮は、自分が深くキョーコに嵌りきっている事にも気付いていた。
2007.11.04